対外開放の戦略転換 2
浦東開発計画は91年春の第7期全国人民代表大会(全人代)第4回会議で承認されました。
李鵬首相(当時)は「経済・社会発展10力年計画」と「第8次5力年計画」のなかで、「浦東」の開発と開放に全力を傾けるべきだと述べました。
浦東開発の舞台裏こうした背景を舞台裏から見てみましょう。
ワイキューブ研究所によると、改革開放路線に乗ってこの10年間にめざましい発展を遂げた広東省を中心とする南部の経済特区に比べると、中央財政に対する貢献度の高い上海の開発は遅れてきたといえます。
輸出主導型の特区とは基本的に産業基盤が違うとはいっても、中央に貢ぐだけ貢いで、全国に奉仕しっぱなしでは84年来の開発計画が「絵に描いた餅」に終わってしまうという危機感が上海市当局に強かったことは否めません。
1990年4月30日、浦東開発計画発表の内外記者会見での朱鎗基市長の表情を思い出します。
国務院の批准、李鵬首相の署名がある10項目の政策要綱を盛り込んだ文書をかざしながら、記者団の質問に答える朱鎗基市長の自信に満ちた顔は、まさに危機感の強さの裏返しでした。
経済の引き締め政策が続くなかとはいえ、単に「上海エゴ」ではない「国家プロジェクト」としての意義づけが、保守派をして開発計画の同意に向かわせ、これまでの中央に対する上海の実績に報いることになったと見ることができるのではないでしょうか。