対外開放の戦略転換 3
中央政府の強力な「舵取り」の下で進められることになるこの開発計画が、「李鵬プラン」とも呼ばれるゆえんです。
李鵬首相がこの計画の「国務院批准」を発表したときは、まさに天安門事件に対する国際的な厳しい経済制裁が続いていた最中でした。
開発計画と併せて、その鍵を握る対外開放政策の不変を強調する政策的な側面からも発表の舞台は「北京」よりは、国際都市として響きのいい「上海」がより効果的だと踏みました。
李鵬首相自らの上海入りにつながったといえます。
ここで、上海・浦東開発計画の歴史を簡単に振り返ってみたいと思います。
上海市にとって、黄浦江は水運の一大動脈として欠かせない存在です。
この黄浦江によって遮られた東側の広大な揚子江の三角州は、旧租界地を中心に発展してきた西側の地域に比べると、140年の上海市の都市建設のなかでいつも置き去りにされたような存在でした。
しかし、その開発構想は1920年代に著された孫中山(孫文)の「建国方略」に、東方大港計画や新市街地建設計画としてすでに論じられていたのが見えます。
それから60年余りたった1984年、上海市政府の都市計画として初めて正式にまとめられ、新たな1歩を踏み出すことになったのです。